481346 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

今拓く華と路と空と風 4

   今拓く華と路と空と風 4


 今まで書きとめていた短文を見みここにかかきこむことにするそれが今の年になってそこはかと深い思いをよみがえらせてくれる。

      あの頃のこと
                             今田  東         

 今年の三月で一つ歳を取った。四十年前に父が逝った歳に為ろうとしていた。六十を過ぎてから歳の巡りは一段と早く感じられ無為の時間を過ごしたことになる。六十歳までは年に四回二時間から三時間の台本を書き演出も手がけ公演をしていたことが嘘の様に、今では全く創作意欲がわかないのだ。六十で創作は卒業すると公言していたがいずれ書かなくては為らない羽目になるだろう、書かずにはおられない衝動がつきあがってくるだろうという気持ちでそのように言ったのだが、怠惰か衰えたのか頭の中に創作をする、書く意欲が全然わいてこないのである。
 今までは創作の基盤を書く必然においていて、それを元にして書いていたのだがその必然がいっこうに体を震わせ頭に血を上らせることがなくなった。テレビを見ていてそのテレビに怒鳴ることが多くなった。つぶやきも繁く為った。それら行為に必然は打ち消されているのだろうかと考えるようになった。若かった頃は正義心が旺盛で不正に対してじっとしておられるたちではなかったのだ。その矛盾を必然として書き演じさせたものであった。社会派を気取っていたのだ。が、それは学生運動と公害闘争をやっていた過去の遺物があってそう自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
 最近は原稿用紙に文字を埋めると言うことはなく、パソコンのワードを開いたままでじっと画面を見つめているだけなのだ。書くという行為は熱く心が燃え動いてなくてはひと文字も書けるものではないのだ。書き進めている原稿用紙の前で熱くほてった体を覚えているだけに、書こうとする前の高揚感がないのはつらいことであった。真冬に額から汗を垂らし下着になって格闘するそんな時間をもう一度ほしいと思うのだが、枯れたのかつきたのかあの日に戻れない時間の浪費をこのなん年も続けているのだ。
 やったことと言えば、書いたものを推敲する、書き直すくらいなものであった。大江健三郎は書くのが四十で直すのが六十と言ったが、書き殴って完成したというものではないのだろう。そのことはよくわかる。ものを書き稿料を貰った者ならそれは許されないことなのだから。新聞社の連載を持っていたときにはこの苦しさをいち早く終わらせたいと、書き殴ったことは何度かあったが、それはとうてい作品と呼べるものではなかったろう。今なら時間をおいてじっくりと書き読む人への心の糧と考えるのだが、若かった所為か弱かった故か蔑ろにしたことを悔やんでいるのだ。
 その頃、不安神経症を患っていたことも心の平穏を失っていた原因であったろうが、やっつけ仕事をしたことになる。やつれた精神はその場を逃げることを望んでいたのだ。そんな書き手を新聞社は用がなかったろう。三年で切り上げてくれた。助かったとそのときは思ったが、それからどこの新聞社からも依頼が来なくなっていた。心の叫びを書いたのだがそれは自分だけの不安神経症の叫びであったのだ。新聞小説とコラムを書いただけで終わった。
 この歳になって何かすることはないかと色々と考えてみるが何もすることにぶつからないのだ。地方では名の知れている所為か文化財団の企画委員をやってくれと言う声や、国文祭の企画委員をやらされると言うことはあっても心は弾まない。もう心も体も冷め切ってしまっているというのだろうか。
 昨年は孫のために「血筋」という小説を書いたが、それくらいで後は何も書かなかった。公演台本の書き直しでお茶を濁したのだ。
「六十五を過ぎると元気になるよ」と先輩は言うけれど活力はいっこうにわいて来ないのである。見る夢は二十代の若かった頃のものばかり。そのあたりを書けという暗示なのかとも思うが、そうでもなさそうであるのだ。心に引っかかったものが夢の中に物語を作っているようであるのだ。出てくる登場人物はいつも同じ、その人たちに恨まれる言われはないのだが。そう思っているのは自分だけで恨まれていたのかもしれないと強迫観念を感じることもある。

この文章は当然と思いここに盗作をして載せます。

【一、毎朝、早く起きて顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝のご挨拶をしなさい。そして、年齢に応じて部屋の掃除をし、いつお客様がお出でになってもよいようにしなさい。              
二、父母や目上の方へ食事の世話、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません。理由があって、どうしても早く食べなければならない時は、その理由を言って許しを得てから食事をしなさい。      
三、父母が家の玄関を出入りなさったり、あるいは目上の方がお客様として玄関にみえられた時、お帰りになる時は、送り迎えをしなければいけません。             
四、外出するときは、父母に行き先を告げ、家に帰ったならば只今戻りましたと、挨拶をしなさい。すべて何事もまず父母にお伺いをし、自分勝手なことをすることは許されません。
五、父母、目上の方と話をする場合は、立ちながらものを言ったり、聞いたりしてはなりません。また、いくら寒いからといって自分のふところの中に手を入れたり、暑いからといって扇を使ったり、衣服を脱いだり、衣服の裾をたぐり上げたり、そのほか汚れたものを父母の目につく所に置くようなことをしてはいけません。               
六、父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、つつしんでその用件をうけたまわり、そのことを怠らないでやりなさい。自分を呼んでおられる時は、速やかに返事をしてかけつけなさい。どのようなことがあっても、その命令に背いたり、親を親とも思わないような返事をしてはいけません。 
七、父母が寒さを心配して、衣服を着るようにおすすめになったら、自分では寒くないと思っても衣服を身につけなさい。なお、新たに衣服を用意してくださった時は、自分では気に入らないと思っても、つつしんでいただきなさい。   
八、父母が常におられる畳の上には、ほんのちょっとしたことでも上がってはいけません。また、道の真ん中は偉い人が通るところですから、子どもは道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや、藩主や家老がお通りになる門はなおさらのことです。                       
九、先生または父母と付き合いがある人と途中で出会った時は、道の端に控えて礼をしなさい。決して軽々しく行き先などを聞いてはいけません。もし、一緒に歩かなければならない時は、後ろについて歩きなさい。            
十、他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んではいけません。 
十一、すべて、まず学ぶことから始めなさい。そして、学習に際しては姿勢を正し、素直な気持ちになり、相手を心から尊敬して教わりなさい。                 
十二、服装や姿かたちというものは、その人となりを示すものであるから、武士であるか、町人であるかがすぐわかるように、武士は武士らしく衣服を正しく整えなさい。決して他人から非難されるようなことのないようにしなさい。もちろん、どのように親しい間柄であっても、言葉づかいを崩してはいけません。また、他の藩の人たちに通じないような、下品な言葉づかいをしてはいけません。           
十三、自分が人に贈り物をする時でも、父がよろしく申しておりました、と言いそえ、また、贈り物をいただいた場合は、丁寧にお礼を述べながら父母もさぞかし喜びますと言いそえるようにしなければなりません。すべてに対して父母をまず表に立てて、子が勝手に処理するのではないことを、相手にわかってもらえるようにしなければなりません。    
十四、もしも、父母の手伝いをする時は、少しでも力を出すのを惜しんではいけません。まめに働きなさい。      
十五、身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません。それにお客様の前では、身分の低い人はもとより、犬猫にいたるまで決してしかり飛ばしてはいけません。また、目上の人の前で、ものを吐いたり、しゃっくりやげっぷ、くしゃみやあくび、わき見、背伸び、物に寄りかかるなど、失礼な態度に見えるような仕草をしてはいけません。            
十六、年上の人から何かを聞かれたならば、自分から先に答えないで、その場におられる方を見回して、どなたか適当な方がお出でになっていたら、その方に答えてもらいなさい。自分から先に、知ったかぶりをして答えてはいけません。  
十七、みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出かけるのを楽しみにしてはいけません。特に男子は、年が若い頃は女子と二人だけで遊びたい本能をおさえることは、なかなか難しいとされています。だからといってそのような遊びを経験し、癖ともなれば、それこそ一生を誤り、大変不名誉な人生を送ることになりかねません。だから、幼い頃から男と女の区別をしっかりし、女子と遊ぶ話などしないことが大切です。あるいは、下品な言葉を発して回りの人を笑わせたり、軽はずみな行いをしてはいけません。なお、喧嘩は自分で我慢ができないから起こるものであって、何事も辛抱強く我慢して喧嘩をしないように、いつも心掛けなさい。】
このように人か人か言い伝える見ことが大切なことなので載せました。

これは不都合真実である。

白神亮一さん、政子さんへ
人がなくなると言う事は荘厳な事だと言う認識は持っています。歳をとりゆくときに私は今まで付き合っていた人たちから遠慮をする生き方に変えています。一人、いいえ、家人と二人で老いの未知の世界を生きようとしています。60歳にして劇作家も演出家も捨てています。70歳の古希には小説を久しぶりに出版いたしましたのも一つの区切りとしたかったからです。家人と知り合いもう50年を迎えようとしています。岡山県人名鑑、中国年鑑人名録、日本紳士録、等に載るようになったのも家人の影の支えがなくてはなかったと思っています。岡山県下の物書き、絵描き、新聞記者が常に尋ねてきて賑やかな時にも悪い顔一つせずに笑っていてくれました。岡山県の代表で全国青年大会に東京へ行く時にも若い人を見てあげてと送ってくれました。五年間で4回も東京の舞台で私の戯曲を上演しました。脚本賞、小説賞を貰いましたがこれは二人の、家人と私が貰ったと思っています。世界の演劇交流のために日本の演劇人から選ばれて財団法人舞台芸術財団演劇人会議を作る事も文化庁の要請であり参加しましたが一番体調の悪い時期で心配をかけたのです。早稲田や銀座で会議がもたれ月に2.3度東京に出向いていました。篠田正浩監督と昵懇になり監督の最後の作品までの4作を手伝う事になったのです。ロケ現場には家人を連れて行きました。その忙しい間に芸文館ホールで10年間子供たち50人と演劇づくりを通して思い出を作ってほしいと頑張りました。子供たちは母子家庭の子、不登校の子、いじめられっ子たちでしたがその瞳はみるみる輝きを取り戻してくれました。私は沢山その子らに教えられました。家人もその世話をしてくれました。その間に毎日新聞にコラムを3年間書き、他の新聞にも小説を連載していました。子供たちを卒業させて私は劇作も演出もやめたのです。私は不器用な人間です。
何時だったか都合で法事に出席が出来ないと言う事で縁を切られました。少しびっくりしましたがそれが社会と言うものかと思いました。兄妹は他人の始まり、世間ではよくあることと知っていましたから。私が何か御迷惑な事をしたのでしょうか、人にはそれぞれ都合がある、その事を考えてみました。私の心にはそれは鮮明に残っています。兄妹の縁を切るそれはどこにでも転がっている話です。それでいいと言うのが私の考えです。その言葉を受け入れました。私は去る人は追わず辞めさせたり縁を切った人は一人としていません。
私はこの芸術の世界にいても表に出る事が嫌いな性質があります。私の人生は自律神経失調症との戦いでした。
御子息の結婚式にも体調が悪く出席はいたしませんでした、家人が一人祝いの席に出向きました。私と妻の部屋にはその時いただいた引き出物の時計が今でも御子息の幸せを祈るかのように時を刻んでいます。動かなくなれば直して幸せの時を刻ませるのがいただいた者の務めと考えています。おろそかにしてはならない、まして祝いの品をそのようにしたくない、それが幸せを祈る事に変えているのです。本当の愛と言う物は見せるものではなく見られることなくひっそりと行う事だからです。時計が時を刻んでいれは元気で幸せだと思います。300-400作品を書いたけれどそのような心で書いて来ました。名利名聞など欲しいと思っておりません。図らずも私を取り上げてくれる人がいても断ってきました。人名鑑にしても紳士録にしても断ったのに出されたものです。また今回私が書き公演した作品を文化庁の要請で早稲田大学が保存したいと言う申し出がありましたが、その資料を私の家で保存していたら劣化するので承諾いたしました。これは私一人のものではなく公演に参加した人たちすべての人のものだから受託したのです。私の作品は文化庁の指示で全国の劇作家が書いた作品名を記録した10冊の本にして日本演劇協議会が保存しています。これらはすべて私と家人が創ったものです。
家人とめぐり合い義父義母さんに幸せにすると誓いました。
なにもしてあげる事はできませんでした。家人に辛い思いをさせた事はありません。金銭的には貧しかったけれど金で幸せを買えるとは思っていません。裏切った事はありません。また、私を陰に支えて下った義父義母さんには何時も感謝の念を忘れた事がありません。いただいた真心は次に生きる人達へつなげてきました。それが義理とは言え親子のあり方であると思っているからなのです。
今、歳を取るその道すがら人間とはという考えにとらわれる事が多いのです。
応仁の乱に始まる播磨の赤松家から江戸時代の大庄屋吉馴家、高松藩の家老職を務めた蓮井家、丸亀藩の漢学者大森家、それらの血が私には流れています。明治維新、大東亜戦争により没落しました、赤貧のなかで育ちましたが沢山の人達に育ててもらいました。それも日本を代表する人達にです。
また、家人と出会い養父母さんには物資両面にわたり支えていただきました。温かい心を頂きました。
我が家には代々に受け継がれている死生観があります、今生きている事は次の世代を作る事なのだと、またおやじが私に残した言葉は、「東大を出て国を動かす人になるより、人様の邪魔になる石を動かす人になれ」
それが実践出来たかを振り返っています。
ここ数年で兄を、姉をなくしました。その時に多くの人に見送っていただきました。英樹さんだけにはその事を告げました。みんなに心配をかける事をさけました。面識も付き合いもない人への義理の供養を強要はしたくありませんでした。
私の葬式はするな、仏壇も墓もいらない、経も上げなくていいと言ってあります。何人にも伝えるなと。法事もしなくていい、人様に迷惑はかけるなと伝えています。世界のあらゆる宗教を学んでそれを決断しました。今、宗教界には感謝と言う文字が見当たりません。人間は感謝をすることで心が正常に保たれ新しくリセットするのです。洗われるのです。
生きて愛して死んだ、それでいいと…。
この文をいかように解釈していただいても構いません。家人に辛い思いをさせているのではないかと言う気持ちで書いたものです。私に対しての罵詈雑言は一向にかまいません。それは私の生き方であるからです。世間の常識にはこだわっていません。このような事を言ったら自分ならどうだろう、どう考えるか、人の思いを受け止めて自分ならどうか、それが倫理観です。そこから初めているのです。また服装も気にかけません、文化庁のパーティーも普段着で良く行ったものです。どう思われても構わないそれを通してきました。それらは生きて感じた私の矜持なのです。自分に正直に生きたかったのです。それによって誤解が生まれたら私の責任です。それによって不快な思いをさせていましたらお許しください。人さまがなにを考え暮らしているかを否定していません。
今、付き合った多くの人達と距離を置いているのです。
私を導き指導をしてくださった人たちは殆どが鬼籍に入りました。
家人と二人だけの世界でいいという気持ちです。出会ってから今に至るその時の思い出にしみじみ浸る幸せを感じています。今、世界の歴史、日本の歴史、民族の移動、起こっている人権無視の残虐な行為、世界が破滅に向かっているその原因、日本の政治、経済に、日本人のこころのあり方を話し合って時を過ごしています。私に手をさしのべ、教えてくれた人たち、家人と共に造った私達のひとこまです。
皆さまのご健康とつつがない日々をと願っています。

断片的な思いが交錯している。
40年前に書いた「瀬戸の夕立」天領倉敷代官所炎上を、今の視点で新しく書き遺そうかと言う希有が生まれてきている。書き変えてもいいものか、今は何もかも捨てて書く物は自分のためであるだけに許されると思っている。
  江戸末期の日本の現状

立石は何を考えて行動したのか。当時の幕藩体制についてどのように思っていたのか、幕府に対して何をどのように改革してほしかったのか。庶民の生活はどうであったのか、はたして江戸時代は身分制度が厳格に定着していたのか。混迷のなかで果たして文化は作られるものなのだろうか、精緻な技術が子弟制度のなかで磨かれ引きつがれるものなのか、国民は朝廷に対してどのような判断をし見ていたのか、国民の庶民の生活はどうであったのか、食料の自給率は日本の人口を定めたのか、ほころびは何処に見えたのか、文久の大飢饉は幕藩体制に不平をもたらすものであったのか。
ここで世界の情勢に目を向けてその情報を知らなくては日本の立ち位置が分からない。植民地の拡大が植民地政策を行っていた諸国には重大な問題であった。アジアで残されていたのは日本とタイ、中国、朝鮮は中国の属国、植民地でないが各国へ割譲して植民地とはなっていなかった。が、それはアヘン戦争のように諸外国による統治であった。中国はむしろアジアと言うより白人社会に迎合していたというよう。
アジアで残されていたのは日本だけ、と言ってタイは風土病が蔓延していて植民地には不都合な状態であった。
日本への植民地政策は宣教師も投げたとおり世界のなかで一番の識字率を持ち日本固有の文化を花咲かせていて、また、朝廷の支配、江戸幕府の政策、仏教の浸透がそれらを阻害していた。
イギリスは日本に対して内部の分裂を画策することにし、不平不満を煽り兆機させようと暗躍していた。まず戦国時代に豊臣方として敗れた薩長にその種を落とした。江戸との距離間もそれに最適であった。この発端は何と戦国時代にさかのぼるのである。毛利、島津、そして、長宗我部の残党らは戦国時代の遺恨を忘れることなく心において今があった。それを利用しようとしたと言う事はイギリスがそこまで日本の歴史を熟知していたと言える。まず、長州の若者五人を密出国させロンドンで国のあり方、国民の生活、人権、要するに民主主義を叩き込み、産業革命の重要性を教えた。後にそれらの若者は維新後に日本の中枢になる。その間、吉田松陰らの啓蒙が盛んに行われ、国のあり方に不満を募らせ、開国への機運が急速に広がった。日本国内では内乱がおこりそれが維新のクーデターへと結実する。
そんな背景のなか立石はその事実を見ていたのか。
私は、立石の行動をその時の行動としては見ない。あくまで維新後の薩長の政治を見て立石の行動を判断したい。見えてくるものは何か、はたして欧米列強に追いつけ追い越せの文明開化が国に取って、国民にと取って平和で幸せなことだったのかを思考したい。維新の付けは日清日露大東亜戦争の道を歩まなくてはならない、イギリスの、諸外国の思惑のなかで行わなくてはならない布石だったのだ。
立石は死しているが、その発端を作った人物として改めて考えなくてはならないと言う事であろう。

書いていると今の思いがすなわち歴史なのである。


© Rakuten Group, Inc.